自分探しの果てにあったもの。

「自分とは何か」。

誰もが一度は考えたことがある話題の1つだと思う。

ボクはかつての自分に絶望して。

何もかもがどうでもよくなって。

「自分探し」の旅に出かけた。

そして、あっという間に今に至る。

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

森 博嗣
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何を見つけたか?

何も無かった。

ただわかったことが1つだけある。

自分は「何もわからなかったんだな」ってことだ。

単に、それだけ。

それだけなんだ。

ありゃ。

こんなつまらない結論でガッカリしちゃったかな?

でも、本当に最後まで「自分探し」をして良かったと思う。

多くの人が途中で諦めてしまうのだろうし。

ただガッカリしたとしたら、それは、ちと早とちりッス。

ああ、ボクの言い方が悪かったかもしれない。

「何もなかった」のではない。

「自分」を考えなくなった、とでも言うのかな。

心が「自分」という存在に囚われすぎていた。

そのことに気づけたことが大きい。

自分を見つけた人なら、きっとガッカリはしない。

逆に嬉しくなる。

ボクは、まあ、モヤモヤが消えてスッキリした感じだ。

「山頂で見る御来光」とでも言うのだろうか。

わかるかな?

いや、これも見るタイミングによって、モヤモヤに隠れてる場合もあるか。

コトバって難しいね。

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自分とは何か。

自分とは自分の体や心だけでは語れない。

関係性の中から見出していくもの。

周囲との繋がりの中に成り立つものだ。

だから独りでは「自分」は存在することができない。

存在はしてるのかもしれないが、認識することはできない。

何か誰かと繋がりを感じたときにはじめて、自分の存在を知ることができる。

不思議なものだ。

そう、理屈ではわかったつもり。

でも、やはり、心の奥底ではわかったとはまだ言えない。

まあ、死ぬ前までにはわかるだろうと、勝手に思っている。

だから、もう「自分探し」する必要はなくなった。

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「自分探し」の果てにあったものは何か?

「何も無かった」、そんな結論じゃちと寂しい?

いやね、そうじゃないんだよ。

それは1つのはじまり。

1つの門出。

それがわかったことが素晴らしいことなんだ。

だから、「自分探し」はしてみて損はないと思う。

宇宙の果て探しに似ているかもしれない。

否定的なことを言う人もいるかもしれへんけどねw

確かに、社会的には何の役にも立たないんだよね。

生産的な活動なんてほとんどできなかったし。

でも、それよりも大切なことがあるのだと思う。

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「自分探し」の果てに、1つの課題が生まれた。

どうやったら「自分を消す」ことができるだろうか?

消すとは、殺すことじゃない。

意識しないようにすることだ。

囚われないようにすることだ。

これこそが今を楽しく「生きる」ために必要不可欠なことだと感じてる。

それがなぜなのか、まだうまく説明ができない。

でも、そうなのだと確信している。

まあ、この文章を書いてる時点で、方法はわかってる。

だからこそ、今、自分の外に出し始めているのだろう。

受動的、かつ、能動的。

その2つが同居してる感じに、だ。

うーん、やはり、まだうまく説明はできないようだw

ごめんなさい。

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人は幼児期にトイレを覚えることで自我に目覚める。

そして、思春期頃から自分と他者との狭間で悩みはじめる。

天使と悪魔の存在を認知するあたりから「自分探し」がはじまるのだと思う。

ボクの場合は、ずっと勉強でごまかしてきちゃったけれど。

だいぶ、スタートラインが遅れてしまった。

まあ、それはそれで良かったんだけど。

天使とは、世間(一般のルール)。

悪魔とは、世間の中でもがく自分。

やがて、世間とは自分が作り出した世間であって、本当の世間ではないことに気づく。

そして、天使と悪魔とが合体し、1つの自分になっていく。

「自分探し」は永遠に続くのかと思ったけれど、そうでもないらしい。

青年期(身体的な成長期)の終わりとも関係してるのかな?

(最近お腹の弛みが気になる、そんなお年頃になってきた)

そして、次の段階は・・・なんやろ。

・・・大人?

まあ、呼び方なんてなんでもいいや。

その後も、望めばずっと精神的な成長期は続くのだから。

そして死ぬまでずっと成長し続けられたらよいな思う。

目の前のすべてが輝きに満ち溢れますように。

幸あられ。 幸あれれ?