自分探しの果てにあったもの。
「自分とは何か」。
誰もが一度は考えたことがある話題の1つだと思う。
ボクはかつての自分に絶望して。
何もかもがどうでもよくなって。
「自分探し」の旅に出かけた。
そして、あっという間に今に至る。
何を見つけたか?
何も無かった。
ただわかったことが1つだけある。
自分は「何もわからなかったんだな」ってことだ。
単に、それだけ。
それだけなんだ。
ありゃ。
こんなつまらない結論でガッカリしちゃったかな?
でも、本当に最後まで「自分探し」をして良かったと思う。
多くの人が途中で諦めてしまうのだろうし。
ただガッカリしたとしたら、それは、ちと早とちりッス。
ああ、ボクの言い方が悪かったかもしれない。
「何もなかった」のではない。
「自分」を考えなくなった、とでも言うのかな。
心が「自分」という存在に囚われすぎていた。
そのことに気づけたことが大きい。
自分を見つけた人なら、きっとガッカリはしない。
逆に嬉しくなる。
ボクは、まあ、モヤモヤが消えてスッキリした感じだ。
「山頂で見る御来光」とでも言うのだろうか。
わかるかな?
いや、これも見るタイミングによって、モヤモヤに隠れてる場合もあるか。
コトバって難しいね。
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自分とは何か。
自分とは自分の体や心だけでは語れない。
関係性の中から見出していくもの。
周囲との繋がりの中に成り立つものだ。
だから独りでは「自分」は存在することができない。
存在はしてるのかもしれないが、認識することはできない。
何か誰かと繋がりを感じたときにはじめて、自分の存在を知ることができる。
不思議なものだ。
そう、理屈ではわかったつもり。
でも、やはり、心の奥底ではわかったとはまだ言えない。
まあ、死ぬ前までにはわかるだろうと、勝手に思っている。
だから、もう「自分探し」する必要はなくなった。
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「自分探し」の果てにあったものは何か?
「何も無かった」、そんな結論じゃちと寂しい?
いやね、そうじゃないんだよ。
それは1つのはじまり。
1つの門出。
それがわかったことが素晴らしいことなんだ。
だから、「自分探し」はしてみて損はないと思う。
宇宙の果て探しに似ているかもしれない。
否定的なことを言う人もいるかもしれへんけどねw
確かに、社会的には何の役にも立たないんだよね。
生産的な活動なんてほとんどできなかったし。
でも、それよりも大切なことがあるのだと思う。
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「自分探し」の果てに、1つの課題が生まれた。
どうやったら「自分を消す」ことができるだろうか?
消すとは、殺すことじゃない。
意識しないようにすることだ。
囚われないようにすることだ。
これこそが今を楽しく「生きる」ために必要不可欠なことだと感じてる。
それがなぜなのか、まだうまく説明ができない。
でも、そうなのだと確信している。
まあ、この文章を書いてる時点で、方法はわかってる。
だからこそ、今、自分の外に出し始めているのだろう。
受動的、かつ、能動的。
その2つが同居してる感じに、だ。
うーん、やはり、まだうまく説明はできないようだw
ごめんなさい。
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人は幼児期にトイレを覚えることで自我に目覚める。
そして、思春期頃から自分と他者との狭間で悩みはじめる。
天使と悪魔の存在を認知するあたりから「自分探し」がはじまるのだと思う。
ボクの場合は、ずっと勉強でごまかしてきちゃったけれど。
だいぶ、スタートラインが遅れてしまった。
まあ、それはそれで良かったんだけど。
天使とは、世間(一般のルール)。
悪魔とは、世間の中でもがく自分。
やがて、世間とは自分が作り出した世間であって、本当の世間ではないことに気づく。
そして、天使と悪魔とが合体し、1つの自分になっていく。
「自分探し」は永遠に続くのかと思ったけれど、そうでもないらしい。
青年期(身体的な成長期)の終わりとも関係してるのかな?
(最近お腹の弛みが気になる、そんなお年頃になってきた)
そして、次の段階は・・・なんやろ。
・・・大人?
まあ、呼び方なんてなんでもいいや。
その後も、望めばずっと精神的な成長期は続くのだから。
そして死ぬまでずっと成長し続けられたらよいな思う。
目の前のすべてが輝きに満ち溢れますように。
幸あられ。 幸あれれ?