平和ボケしていませんか?

平和ボケ…。

平和ボケとは、死への実感の薄れ…。

何も戦争を肯定しているわけではない。

逆にボクは「戦争は反対」という立場である。

でも、最近、この言葉が脳裏を過ぎるのである。

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死への実感を駆り立ててくれるのは、戦争以外にもある。

そう、身近な人・大切な人・掛替えの無い人の死である。

もしかしたら、それは愛玩動物(ペット)の死かもしれない。

感受性の強い人は、それ以外からも死を実感できるかもしれない。

この自分の一部を無くしたような恐怖感は、

有無を言わさず、死への実感へと突き落としれくれる。

死は、とてもとても底知れず、辛い辛いことである。

その恐怖感は、一人では耐えられない。

一人で耐えようとすればするほど、

逆に、死に飲み込まれてしまうような気がする。

これは体感した人でなければわからない。

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この死の恐怖を受け入れられた時、

なんとか乗り越えられた時、

その恐怖は生への実感へと生まれ変わる。

そう、死の実感は、即ち、生の実感へと導いてくれる、

生みの親みたいなモノかもしれない。

生への渇望へと導いてくれる大切なモノなのかなって。

最近は、感じるようになった。

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死への実感の薄れは、生への実感への薄れに繋がる。

最近のニュースを聞いていると、そんな気がしてならない。

生への実感の薄れは、

他人への関心の薄れにも繋がっているように見えるから。

滑稽なことに、

自分のことばっかり考えてるように見える人の中には、

自分のことすらどーでもよくなっているようにも見える。

自分のことすら見えなくなって、

周囲に振り回されて、踊らされて、疲れきっているの?

他人への関心の薄れは、


もしかしたら、自分への関心の薄れなのかもしれない。


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平和ボケ…。

生と死との関係性を見失った人たち。

自分と他人との関係性を見失った人たち。

一体、彼らは、何を見ているのだろうか?

一体、ボクは、何を見ていたのだろうか?

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広島の平和記念館を拝観して、

沖縄にあるひめゆりの塔に訪れ、

靖国神社を参拝して、、、

その当時は、よくわからなかったけれど。

彼ら・彼女らの死を無駄にはできません。