「希望」の正体。

「希望とは自分が変わること」

この言葉に震える人はどのくらいいるだろうか?

養老孟司さんが残した言葉だ。

「希望」という単語を、うまく表現した言葉だと思う。

挫折したときにはじめて理解できる、それが希望。

雑誌「考える人」に9年間連載されていたものの書籍化。

頭は、毎日の積み重ねでいつしか丈夫になる。 自然を毎日10分見続けるだけでも、人は変わる。 「希望はそこにあります。 世界が変わることではなく、自分が変わることにあるのです」。 考えることは、思考のマラソンのようなもの――愚直に走り続ける著者が放つ、刺激的な言葉の数々。 各巻読み切りで全3冊、3ヶ月連続刊行スタート!

「脳と身体」「都市と田舎」がテーマとなっている。

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都市化の流れに対する、ささやかではあるが根強い抵抗

都市化には疑問を感じるし、興味深い。

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都市は「脳化社会」、「ああすれば、こうなる」という社会

すべてが予測可能、コントロール可能であるべき社会

どことなく不自然で違和感のある世界?

人間様的な世界? 予測可能で、つまらない世界。

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一方で、田舎は「自然」、手入れをすることが必要なもの

すべてが思い通りになるわけではないが、だから、おもしろい。

なぜ、みんな都会に集まりたがるのだろう? いみふ。

便利だけど、かえって人は邪魔だとも感じる時がある。

人としての意味を失い、人が壊れていく。 そんな気がする。

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「田舎には何もない」という人がいる。

逆に「都会の方が何もないのでは?」と思ってしまう。

そんな人たちとの会話は、やはり、つまらない。

子供と話してた方が、よっぽどおもしろい。

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都会にあるのは人が作ったもの。 ただ、それだけ。

そして、ゴキブリやカラス、ハトを見ては、追い払おうとする。

気持ちはわかるが、何かが変だと思う。

この違和感は、どこからくるのだろうか?

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すべてを、ありのままの姿をつつみこんでくれる、田舎。

日本はどこに言っても代わり映えしない風景。

だけど、言葉が違う。 味がある。 人がいる。

都会で味わう挫折が、ちっぽけに思える。 それが自然。

争いを嫌いという人も多い。 都会化が生んだ幻だろうか?

その先の希望にすがりつこうとする姿が映る。

「もうそれしかない」という心境なのだろうか?

たとえそこで挫折したとしても、

その先には、本当の希望が待っているというのに。

受験戦争とか、懐かしく思えてくるだろう。

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危機的状況の中の希望村上龍ニューヨーク・タイムズへの寄稿文 2011年03月18日 (金) 掲載

ニューヨーク・タイムズのThe Opinion Pageに、作家 村上龍の寄稿文が掲載された。これを読んだタイムアウト東京のエディトリアル・ディレクター、ジョン・ウィルクスは、「とても誠実な文章だと思う。災害について行き過ぎた大げさな報道をしているイギリスのメディアでは見られなかった内容だ。今すぐ彼をハグしたい気持ちだ。」と共感とリスペクトを表した。タイムアウト東京には、ツイッターを通じて、外国人フォロワーから、「涙しました」、「これこそ、今読むべき記事だ」などのメッセージが寄せられている。

震災の後、ネットやツイッターを通じてメディアや個人の発信する様々な情報が錯綜している。多くの人々が、何を信じていいのか、何が真実なのかという不安とこれからの将来への不安に心を悩ませているようだ。村上龍のこの寄稿文は、そういった人たちに安堵と希望をあたえてくれるに違いない。タイムアウト東京では、この素晴らしいメッセージが少しでも多くのみなさんに届いて欲しいという思いから、日本語に翻訳し、ここに掲載する。

日本語版掲載にあたり、村上龍氏、ニューヨーク・タイムズ紙には、助言と協力を頂いたことを心から感謝致します。

危機的状況の中の希望
村上龍

先週の金曜、港町・横浜にある我が家を出て、午後3時前、いつも行く新宿のホテルにチェックインした。普段から私はここに週3〜4日滞在し執筆活動やその他の仕事をしている。

部屋に入ってすぐに地震が起きた。瓦礫の下敷きになると判断し、とっさに水とクッキー、ブランデーのボトルをつかんで頑丈な机の下にもぐりこんだ。今にして思えば、高層30階建てのビルの下敷きになったらブランデーを楽しむどころではないのだが。だが、この行動によってパニックに陥らずにすんだ。

すぐに館内放送で地震警報が流れた。「このホテルは最強度の耐震構造で建設されており、建物が損傷することはありません。ホテルを出ないでください」という放送が、何度かにわたって流された。最初は私も多少懐疑的だった。ホテル側がゲストを安心させようとしているだけではないのかと。

だが、このとき私は直感的に、この地震に対する根本的なスタンスを決めた。少なくとも今この時点では、私よりも状況に通じている人々や機関からの情報を信頼すべきだ。だからこの建物も崩壊しないと信じる、と。そして、建物は崩壊しなかった。

日本人は元来“集団”のルールを信頼し、逆境においては、速やかに協力体制を組織することに優れているといわれてきた。それがいま証明されている。勇猛果敢な復興および救助活動は休みなく続けられ、略奪も起きていない。

しかし集団の目の届かないところでは、我々は自己中心になる。まるで体制に反逆するかのように。そしてそれは実際に起こっている。米やパン、水といった必需品がスーパーの棚から消えた。ガソリンスタンドは枯渇状態だ。品薄状態へのパニックが一時的な買いだめを引き起こしている。集団への忠誠心は試練のときを迎えている。

現時点での最大の不安は福島の原発だ。情報は混乱し、相違している。スリーマイル島の事故より悪い状態だがチェルノブイリよりはましだという説もあれば、放射線ヨードを含んだ風が東京に飛んできているので屋内退避してヨウ素を含む海藻を食べれば放射能の吸収度が抑えられるという説もある。そして、アメリカの友人は西へ逃げろと忠告してきた。

東京を離れる人も多いが、残る人も多い。彼らは「仕事があるから」という。「友達もいるし、ペットもいる」、他にも「チェルノブイリのような壊滅的な状態になっても、福島は東京から170マイルも離れているから大丈夫だ」という人もいる。

私の両親は東京より西にある九州にいるが、私はそこに避難するつもりはない。家族や友人、被災した人々とここに残りたい。残って、彼らを勇気づけたい。彼らが私に勇気をくれているように。

今この時点で、私は新宿のホテルの一室で決心したスタンスを守るつもりでいる。私よりも専門知識の高いソースからの発表、特にインターネットで読んだ科学者や医者、技術者の情報を信じる。彼らの意見や分析はニュースではあまり取り上げられないが、情報は冷静かつ客観的で、正確であり、なによりも信じるに値する。

私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。

原文
www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17Murakami.html

編集部注:小説の場面訳は『希望の国エクソダス』より

村上龍さんニューヨーク・タイムズに寄稿した言葉。

・直感的に、この地震に対する根本的なスタンスを決めた。
・集団の目の届かないところでは、我々は自己中心になる。
・全てを失った日本が得たものは、希望だ。

日本人は、自分の器を広げすぎる傾向にあるのかもしれない。

そして、原発というパンドラの箱をあけて、残った”希望”。

的は得ていたが、なんとも、他人事な言葉だった。

怒る人も多いと思う。

それがうすっぺらい希望ではなく、本来の姿だから。

希望とは、本来そういうものなのだと思う。