なぜたたかうの?なぜたたかわなければならないの?
ボクの中にはたくさんのなぜがある。
いまだに消えない、たくさんのなぜがある。
その中の1つに「なぜ働くの?」って問いがあった。
その「なぜ?」は、最近ようやく消えてくれた。
もう1つの大きな「なぜ?」、それは「なぜたたかうの?」だ。
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ボクは争いごとが嫌いだ。大嫌いだ。
個人的のも、はたからみているのも。
そして、勝ち負けをつける意味がわからない。
なぜ勝たなければならないの?
自分が負けるのも嫌だし、
相手が負けるのをみるのも嫌だった。
たぶん、勝ち負けを意識し出すのは、負けたと感じたときだ。
自分が負けている、劣っていると感じたときだ。
自分が勝っている、勝っていると感じてるときはあまり意識しないで済む。
しかし、いったん負けを認めた瞬間、勝ち負けが大きく圧し掛かってくる。
そこではじめて、惨めな自分と出会う。
目を背けたくなる。
逃げたくなる。
そんな自分が嫌いになる。
何もかもが信じられなくなる。
しだいに勝ち負けという結果に、その影が投影されていくのかもしれない。
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勝ち負けが嫌いなボクは、
たぶん大切なものが見えていないんだと思う。
その大切な何かが見えてる人にとっては、
たぶん勝ち負けも違って見えているはずだ。
「なぜたたかうのか?」に対する答えも、明確に持っているはずだ。
勝ち負けをつけること自体にも、意味を見出していると思う。
でも、その大切な何かが見えないボクとっては、
たたかうこと自体が、まったく意味のないことだ。
くだらないとさえ思う。
なぜたたかわなければならないの?
目指すものがないボクは、いまだにその意味が見出せない。
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「なぜたたかうの?」
この質問の裏には、たたかいに対する恐怖があるのだと思う。
その一言に尽きる。
あたかも「たたかい」ことを嫌っているように思われがちなのだが、
本当は、別の何かに対して感じる恐怖なのだとも思う。
「たたかう」こと、言い換えるなら、「負ける」ことへの恐怖。
でも、実際に恐れているのは、「負ける」ことでもないように思う。
負けた先に存在するであろう、「何か」だ。
負けた後には何が見えてくるのだろうか。
「惨めな・・・自分?」
いや、たぶん違う。
それは表面的なものでしかない。
「勝ちたいって想い?」
それも、たぶん違う。
まだ勝ち負けに拘りすぎだ。
勝ち負けの先にあるもの、一般的には、自己の成長だと言われている。
弱い自分と、新しい自分との出会い。
今までとは違う自分との出会い。
今まで知らなかった自分との出会いと言ってもいいかもしれない。
たぶんに、未知なる自分に対する恐怖。
未知というと語弊があるかもしれない。
だって、たぶん、子どもの頃には出会っているのだから。
それを大人になる段階で形成されてきた「世間」という「理性」で押さえ込んでしまった。
記憶の片隅に押し込んでしまった本来の自分だ。
そう、怖がっていたのは、たぶん、本能をむき出しな自分のコア。
ヽ(*`□´*)/ガヽ(*`○´*)/オー!!
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面白いことに、恐怖の対象を認識したとたん、恐怖はしだいに薄らいでいく。
理由はわからない。
いや、認識できなくてもいいのかもしれない。
深呼吸しながら、ゆっくりと恐怖なる感情を堪能してみるとわかる。
ものの10分でその感情は薄らいでいくから。
ただ、その10分は、ものすごく長く感じるのだけれど・・・。
実に人の感情は面白い。
つくづく、そう思う。
感情をつきとめていくと、その根本にあるのは、好きか嫌いかだ。
好きなものに意味があるように、たぶん、嫌いなものにも意味がある。
すべては、自分の奥底にある何かと繋がっているのだから。
自分との繋がりを感じたとき、好きなものは更に愛おしく、嫌いなものもしだいにそうではなくなっていく。
たぶん、世の中のすべてのものは、自分の中のコアな部分が反映されて見えている。
現実を見ているようで、実は幻を見ているのかもしれない。
そう錯覚するときさえある。
実に世の中は面白い。
そう思えると、いいんだけどね。
まだまだ、自分の中の「なぜ?」は尽きてくれない。